喜捨 喜んで捨てる

朝から、何の音だろう?

低い大きな音がする。

やがて、それが人の声だとわかる。
低い野太い声で
「おーーーーーーー。おーーーーーーーーー」と
何人もの托鉢僧の往く声がする。


住宅街の道みちのあちこちを往く声が響く。

家の前を往く声に玄関を開ける。

目の大きな雲水さんがちょうど家の前を通るところを呼び止めて
お布施をさせていただく。

北鎌倉、鎌倉五山の一番の、
建長寺のお坊さんだった。


 願わくはこの功徳をもって
 普く一切に及ぼし
 我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを

よく響く声で、回向分を唱えてくれる。

わたしは、
お坊さんを見るとよくお布施をする。

お布施のことを「喜捨」という。
喜んで捨てる。喜捨


これで何かを得ようとするのではなく、喜んで差し出す。
捨てるのだから還るのではない。見返りのない行為。

わたしは別に仏教徒だとか、そういう意識はなくて

でも時々、
自分の中にそういう差し出す行為はとても大事だと思っている。


でないと、
すぐに何でも抱えたがる。

人に差し出すことを恐れる自分に気が付く。

笑い文字では、
笑い文字は渡すまでは自分の部分。
渡してしまったら、あとはその人の領域。

喜んでくれたか、それを捨てたか飾ったかに
こだわらないようになればよいと思っている。

回向文は
わたしふうに解釈すると、

わたしがした善きことによって、
世界の隅々のすべてのものに影響し、
私たちと、すべての皆さんと
みんな共に人として生きる真理がわかりますように

そんな感じ。


わたしのした小さなことが、
世界に何らかの影響を与える。

それは、わたしは本当だと思っている。


だからこそ、
時々こうやって喜捨。

自分が何事かを
世界に差し出すことができるのだと
思い出させてもらうことは、

私にとって大切です。